芸人ガロインのブログ。

ここではないどこかへ~鴻上尚史~

鴻上熱が冷めないうちにと、鴻上さんのエッセイやら、戯曲集をたくさん読んだ。
買って読んでないのが、まだたくさん。。

鴻上さんの戯曲には、時代が色濃く反映されている。
初めて読んだ戯曲集は【ピルグリム】
『伝言ダイヤル』って、エロのイメージしかないけど、ダイヤルQ2の宣伝場所になる前、初期は違ったみたいで。
そこには、無警戒で正直な悩み相談が吹き込まれていたり、それに誠実に答える伝言があったり。
その伝言ダイヤルに鴻上さんはネットワークの可能性を感じたそうです。

『オアシスって?』『噂』『共同体』
あまり覚えてないけど、なんだか小難しかったイメージ。
舞台で見たい。
《まえがき》には
「今ある自分と、ありたい自分とのギャップ」に退屈してた。
今ある自分が語ろうとする言葉にも、ありたい自分が注釈をつけようとする。
あの当時、驚くほどたくさんの人と会話したが、じつは誰とも会話していなかった。
突然、過去のワンシーンがフラッシュバックすることがある。
あの時、聞こえなかったセリフがはっきり聞こえる。
本当はこう言ったんだと分かる。
そして、今ある自分とありたい自分の距離ばかり見つめていた僕は、あの人の言葉を見つめていなかったという事実に引き裂かれる。
てなことが書いてあり、ぼんやりと納得した記憶がある。

《あとがき》には
亡くなった岩谷さんのこと。
しんみり。


最近読んだ戯曲は【朝日のような夕日をつれて91】と【もうひとつの地球にある水平線】
【朝日~】は
第三舞台の最初の作品1981から83・85・87・91~と何度も再演されている。
芝居は瞬間そのものだという。だから題材も、時代に合わせて変わっていく。
『ルービックキューブ』→『ファミコン』→『バーチャル・リアリティー』と。
今でいう、『セカンドライフ』みたいのが、1990年からあったことにびっくり。その名も『ハビタット』
このように、変わり続けるからこそ【朝日~】の本来の姿は変わらないと。

これは、戯曲で読んでもわかりやすく、ギャグも多く、面白かった。しりとりやら、~病やら。
ラストのセリフ「何にも頼らない、何も待ち続けない」ってのが、決意表明のように聞こえた。
私は私に真向から立ち向かうと。
《83のごあいさつ》
この芝居は「ゴドーを待ちながら」という戯曲と関係がある。
「ゴドー~」は『意味まみれの病』=『物語』に一石を投じた作品。ゴドーが何者なのか知らないが、二人の男はただゴドーを待ち続ける。それだけの芝居。
それがシェイクスピアをしのいで戯曲のバイブルになってた時期もあった。
《83のあとがき》
僕は何度も解散を口にする。
お互いに自分の不安を過激化することも、お互いに批判することもできなくなったら、同じ劇団で活動する意味がない。
安定しちゃうぐらいなら、やめまひょ。
世の中には二通りの人間がいる。変わっていくことが平気な人間と、変わっていくことが恐ろしい人間。
できれば変わっていくことが平気な人間になりたい。
《91のごあいさつ》
人間に一番影響を与えるのは、性格でも親の教育でもなく、立場だと思っている。(演出家という立場、親という立場など)
「渇き」を持ち続けたまま去って行った女性。
まだ自分の中の「渇き」と向き合っているのか。
僕は自分の中の何かと向き合えているのか。
彼女の「渇き」は他人に救いを求めるものではなく、それどころか他人の「渇き」を潤すほどの深みがあった。
それほど感動的で痛みに溢れていた。
《91のあとがき》
すべての芸術は、少しは気持ちが楽になるためにある。
役者について。
自分の不安に勝った役者だけが大きくなれる。
存在感て、その人が耐えている分量のこと。
華とは、耐える重さに反比例した微笑みのこと。
鴻上さんがやりたいのは『涙をふくハンカチのような芝居』
《81のごあいさつ》
当たり前のことを当たり前に描くことは1つのショック。
現代人は物語という構造にインパクトを得なくなった。因果関係の説明が驚きからうんざりに変わった。


【もうひとつの~】は
『家族』がテーマ
ジョジョ・マッコイの解説に任せましょう。
この戯曲は物語が完結してない。起承転結がない。
確信犯として、物語を破綻させている。
鴻上は「起承転結がはっきりしていて、見事な伏線があって涙と笑いののちに、素敵なハッピーエンドのある物語は、僕には退屈でしょうがない」と語っている。
「物語が終わっても、人生は終わらない。だから、どんな素敵な物語の終わりを見せられても、僕は納得できない」とも言う。
ただこの発言自体は珍しいものでなく、文学青年が一時期取り付かれる症状と言ってもいい。
そして文学青年は、結婚か病気か劇団の借金のために、流通しやすい物語を紡ぎ始める。
責めてはいけない。
生活のための自然なこと。
それを堕落したと責められるのは、みずからの汗で毎日のパンを買ったことのない若者だけ。
話を戻して。
では、鴻上の作品は、文学青年がおちいる凡庸な「破綻」なのか。
凡庸な破綻=破綻のための破綻とは、インテリの自己満足でしかない。
鴻上の作品には、完成へのきっかけが散りばめられている。
例えば、秘密ビデオの問題。歴史上カメラのなかったところでビデオが回っていたら。。
例えば、裏ビデオの問題。国が禁じてるのに、たくさんの家庭にあるという奇妙なアンバランスさ。。もし○○が国家に禁じられたら、裏電話、裏冷蔵庫、裏音楽。。
例えば、家族の問題。カードによって役割(立場)が変わるとしたら。。
どれも想像力をいたく刺激する。
そして、これらの問題は宙ぶらりんのまま、見事に破綻している。
ここで見落としていけないのが、問題のキーワードがすべて、現実と密接な関係を持っていること。
観客に想像力を刺激する単語を渡して、すべての結論を観客にゆだねる。
観客は、それぞれの結論をだす。

物語を見事に完結させることを「前向きに進むこと」とするなら、鴻上の作品は、ただ「進むこと」だけで成立している。
現代において、こちらが前向きなのだなどと言い放てる人間がいたら、それはどうかしているのだ。
だからこそ、鴻上の作品は速度や情報量や笑いが問題となる。それはただ「進むこと」で作品を成立させるための方法論なのである。




懐かしい、心に突き刺さってた言葉ばかりで、だらだらと書き出してしまったが。
僕も物語にうんざりしてるのは確かで。
凡庸な文学青年を背中に、一人の日本男児として仁王立ちしようと思うわけです。
ごたごた考えたってわかんないから、ちゃんと向き合って、伴くんとおてて繋いで上昇します。


【頑固ってことは、臆病ってこと】
だそうですね。
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